
2006年9月
総裁選も近づいて、紙面を賑わすのは、小泉さんよりももっぱら次期総裁選候補たちになっています。なるほど、誰が総裁になるのか、組閣はどうか、など「新しい」ことに興味は尽きないものです。また「新しい」ことには期待も膨らみがちです。しかし、「次」を考える前に小泉政権の総括と言うのも重要なことと思います。
8月27日の紙面では、自民北信越大会で話題の3候補の心意気が載っていました。地方のインフラ整備を中心に、北陸新幹線にも前向きな記載が多く耳障りのいいものでしたが、その財源などは未確定要素が多く、本当の「痛み」は見えないままです。
「痛み」と言えば、小泉首相の所信表明演説では、「米百俵」を引用したために、私はつい最近まで「構造改革には痛みを伴うが、今こそ『国民』は将来の日本のために我慢しよう」と言う事だろうとずっと思っていました。 しかし、改めて、長岡市役所のホームページで「米百俵の精神」を調べてみますと、次のように書かれていました。
「長岡藩の窮状を知った三根山藩から米百俵が見舞いとして届けられ、それは食べるものにも事欠く『藩士』たちにとっては、のどから手が出るような米だった。しかし、今は食べるのを我慢して百俵の米を売り、国漢学校の資金とした。その国漢学校には、『藩士』の子弟だけでなく『町民や農民』の子どもも入学を許可された。」これを読むと、2つの重要なことを示唆しているように思えます。
ひとつは、自分たちが当然もらえると思っていた米を『長岡藩士』(既得権保持者)が我慢(既得権放棄)したことで、国漢学校に入れるような恩恵を受けたのは、『町民や農民』(国民)だったということです。
つまり「米百俵」の本来の意味するところは、さまざまな既得権を持つ族議員や天下り官僚など「現代の藩士」がその既得権を放棄して、国民や明日の日本のために痛みに耐えることだったのです。私自身は、既得権がいけないとは思いませんが、既得権をもっているがゆえに「現代の藩士」にも長岡藩士と肩を並べるほど高潔であってほしいと思うのです。
もうひとつの重要な点は学校を作ると言う教育の重要性です。実際にこの国漢学校からは、新生日本を背負う多くの人物が輩出されています。今は、少子化、食育、さらには教育基本法の改正など課題も多い時代です。当時と比べ学校を作ると言う箱物だけの問題だけではないでしょうが、教育の重要性は変らないことでしょう。そのような時だからこそ、個々の施策と同時に、自らを律する大人の存在が、しいては子供のために一番の教育ではないでしょうか。
昨年、西川知事が「福井元気宣言」の実行状況の中間評価を行ったように、小泉政権においても、その評価と次への課題の検証は必要でしょう。確かに「族議員」による政策決定は経済諮問会議の活用に変わってきましたが、国の基本を立て直すための教育改革は課題として残っています。こうした課題を克服するような総裁選候補者自らの考えを分かりやすい記事として取り上げてもらえることは重要なことと考えています。